能面と能楽・佛像と佛像彫刻
<その007>
人形特集-002
奄美群島も台風通過したあたりからやっと梅雨空のような陽気になってきました。本州は大部分が入梅したとか。もう北海道を除いて大部分が湿気で不愉快な季節に突入したことになります。
さて、先回は市松人形を中心としてご紹介しました。大都市の人形専門店などに参りますと、夥しい程の人形が店中に所狭しと並べられております。雛人形から始まって子供向けの創作人形まで、どれ位の種類が有るんでしょうか。
そうは言っても、美術品の価値がある人形になりますと、ある程度の分野に限定されてきます。 市松人形でも顔の造作、衣装がある程度のレベルを超えるものはなかなか見つからないでしょう。たまに見つけたとしても、目の玉が飛び出るほどの値段になっております。 小型車の新車が一台買える値段などざらなんですから。
そのような訳で、簡単に人形を説明するのは瘋癲老人には荷が重過ぎる。それで、オーソドックスな形として「古典人形」と呼ばれる人形について書いてみたい。
A・・ 御所人形 ・ 嵯峨人形
古典人形・・・ B・・ 衣装人形 ・ 市松人形
C・・ 加茂人形 ・ 木目込み人形
D・・ カラクリ人形 ・ 浄瑠璃人形 ・ (嵯峨人形)
上記のようにスパッと分類出来るわけではありませんが・・・・この中で一般的に余り耳にしない人形と言えば「嵯峨人形」が揚げられるでしょう。木彫りの精緻な技巧が施された世界にひとつしか存在しない人形ですね。
江戸時代の初期の頃から仏師によって製作されるようになったとされております。木彫りの上に胡粉彩色された人形ですね。仏師だけでなく能面師でも簡単に技術が転用出来たでしょう。
能面師は江戸期に入ってから、能楽が大名の式楽となったと同時に、お抱えの能面師になっていくのです。出目家を名乗る一派が居りました。鎌倉時代の慶派、円派などと同じように。能面師や仏師の余技から生まれたのでしょうか。
嵯峨人形の面白いところは、カラクリを仕込んだ精巧な人形でもあるので、カラクリ人形や人形浄瑠璃(文楽)の頭(木偶)に類似したところもありますようで、なかなか難しい。
阿波系 頭(木偶)
浄瑠璃人形(文楽人形)は皆さんもご存知のように、頭に衣装を纏わせて数人の人の手でカラクリのごとく人形を動かす芝居に用いられる。 木彫りもあれば、桐塑によって製作される人形でしょうか。彩色はともかくなかなかの名品も見られます。
眉、眼、口、手、首などを人の替え添えで動かすという動的な人形でしょうか。瘋癲老人としてはこの人形の頭の製作には随分興味を覚えましたが、終ぞ観覧したことはございませんでした。演目の内容が恨み辛みの連続のようなので、興味をそそられませんでした様で・・・
Tea Time ・ お茶の時間
平田 郷陽の芸術
初代・平田 郷陽作・・・三つ折れ人形
全身木彫りの人形で、膝関節が曲がるように造られており、衣装を着せてお座りが出来るようになっている。生人形(活人形)造りの名人。初代平田 郷陽は幕末から明治にかけて活躍して、名人と謳われた熊本の生人形師・安本亀八に師事して、写実の技法を会得し、二代目・郷陽に伝授。
三つ折れ人形・初代平田郷陽
三つ折れ人形は江戸時代に出現した人形のようで、上の写真のように腰、膝、腕が曲げることが可能な人形の製作形式です。通常市松人形は直立したままの状態で製作され、身体を折ることが出来ません。人形店で市販されている市松人形は大体この形式です。ですから、三つ折れ人形=市松人形 ではありません。
三つ折れ人形・永徳斎作・江戸時代
* <弘法さんと私>よりお借りしました
抱き人形、大和人形などと言われていた人形は、当時の幼女、娘が人形を裸のままで親に買ってもらい、着物の衣装などは自分で裁縫をして造り上げ、人形を座らせて着せ代えるなどという、情操教育の一環として庶民の間に根付いていた習慣でした。その人形が好事家の手に渡り、蒐集されるようになり、美術品として発展したものなのでしょう。特に市松人形は現在までも関西あたりでは<いちま><いちまんさん>と呼ばれて愛唱されております。
答礼人形・長崎タマ子
生人形(活人形)については、それなりの芸術的伝統がございまして、調べてみますと思いのほか複雑です。これについては次回に書かせてもらいます。
瘋癲老人のちょっとした気まぐれで、市松人形の世界に入ってしまいましたが、調べれば調べるほど奥が深く、今少し後悔しております。でも、人形の顔を見るとさらに深く引き込まれてしまいます。
徳川正子(尾張家20代義知夫人)所用・滝沢光龍斎
* 徳川美術館よりお借りしました。
幼児の頃、母方の親御に市松人形を買ってもらった記憶が今でも残っております。自分より背が大きかったとの記憶がありますから、昭和20年代の初めの頃かと思います。3歳くらいでしょうか。物の無い時代でしたから眼玉が飛び出るほどの値段だったでしょう。赤い着物地だったというはっきりとした記憶があります。
次回はいよいよ大御所「二代目・平田 郷陽」に入ります。
0 件のコメント:
コメントを投稿