2012年6月30日土曜日

日本の伝統芸術と芸能

日本の伝統芸術と芸能 
         能面と能楽佛像と佛像彫刻 
                         <その010


人形特集-005




 奄美もとうとうここ数日で梅雨明けしそうです。種子島、屋久島辺りは大雨の模様。災害にならねば良いかと心配しております。梅雨の末期はいつでもこんな風ですが。台風6号は運よく?大陸方面に向かっておりますが・・・・
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やっと、市松人形の前段階の活き人形が終わりました。古典人形を少し探ってから市松に入ってまいります。
先般も古典人形の分類について書きましたが、結構 いろいろな種類の人形があるようです。飾るのを主体とする人形と、所謂抱き人形に分けることが出来ましょうか。また、三つ折、市松の様に両方の分野に跨るのも在ります。


A・・御所人形
         京都国立博物館蔵

 
 
 御所人形といえば京都の門跡の尼寺に多く名品が蔵されております。「宝鏡寺」などは全国的にも有名な門跡寺院です。皇族の娘を尼寺に送った時、寂しさを紛らわすのにその娘に一緒に贈ったもののようです。悲しくも有る親の情愛が感じられます。
御所人形の頭は精巧なものは木彫りですが、一般向けのものは桐を粉状にしたものを糊で固めて、粘土のようにし、型に押し込んで抜き取るというような手法を取っています。生地の上に胡粉を塗り重ね、彩色を施すという能面の製作手法と同じになります。御所人形という呼び名は明治時代に入ってからといわれており、江戸時代は「白肉(しらにく)」、「頭大(ずだい)」「伊豆蔵」とも呼ばれました。


               御所人形・霊鑑寺(京都)


 
 山形県酒田市の誇る本間美術館は豪商・本間宗久の所有していた美術品を蔵する美術館で、このほかに雛人形なども在るそうです。北前船で財をなした豪商ですので、京都から名品を取り入れたのでしょう。


御所人形・・本間美術館蔵



この御所人形の頭も大変な名品ですね。実に品格が有ります。 
人の行く 裏に道あり 花の山」は本間 宗久の米相場での商いの格言で有名ですね。  人と同じことを考えてては、相場では儲けることは出来ない・・・・ということで、商い以外にも通づる哲学でしょうか。
では最後の御所人形をご紹介しましょう。


御所人形・<うさぎさん> 大聖寺



 大聖寺は京都の御所の森と同志社大学に挟まれた門跡寺院です。この門跡寺院に入寺された光格天皇皇女・普明浄院宮は生後まもなく入寺されたようで、十一歳で亡くなられたとか。この方の御料(持ち物)の人形で<うさぎさん>という名があります。上の本間美術館蔵の御所人形と同じく素晴らしい品格が有ります。



  
 
 御所人形の名品をご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。 まだまだご紹介したいのですが、切が有りませんのでこの位にしましょう。外国にも有名な人形は沢山有り、コレクターは日本にも居られます。
瘋癲老人としては「眼はパッチリとして色白で・・・」は宜しいんですが、どうも今一感心が伸びません。御所人形や市松人形の上品な顔立ちを見ておりますからか、どうも何とも・・・・・ 


           三つ折れ人形
             


 先回もお話しました通り、日本の古典人形は土台に仏像という1500年以上の伝統のある製作技法の上に乗っかってきた芸術ですから、本当に何ともいえない素晴らしさが人形の頭から滲み出てきております。人形は一般民衆の中から出てきたものというだけでなく、日本の伝統ある高度なレベルの芸術の結晶 でもあるわけですね。
恐らくこのレベルを超える人形は日本以外で探すことは不可能に近いと思います。日本人の美意識が世界に冠たるものであることを、われわれは再度再認識しなければなりません。


             葛飾北斎


 
 浮世絵が日本ではなくヨーロッパでその芸術的価値を再認識され、かつ、彼らの芸術に大きな影響を与えたのも、日本画・・・特に下地に長い伝統のある<仏画>、<曼荼羅>というハイレベルの芸術的伝統の上に立脚して、江戸末期・明治時代に海外で華を咲かせたのでしょう。
これは単なる西洋人の東洋に対する、憧れるというようなレベルではないと思います。「葛飾 北斎」の浮世絵が今でもフランスのパリの地下道で壁に描かれ、他の絵に描き直すことなく保存されているということは、彼らに北斎の芸術のレベルに対する尊敬と好奇心を今でも持たれているという現実を、日本人は直視しなければならないでしょう。

                   金剛界曼荼羅


  
 中東、中央アジア、西ヨーロッパ(ギリシャ)、中国、朝鮮で発祥し、また経由してきた様々な文化の最後の終点が日本であったという地理的な条件や、絶妙の歴史的タイミングのお陰、そして緻密な思考能力をもつ国民性の上に立脚した、日本美術は人形や浮世絵ばかりでなく、絵画、彫刻、陶器などさまざまな芸術的分野、あるいは科学的、産業的な分野で遺憾なく能力を発揮しております。
そのような意味から申しましても、<良くぞ、日本に生まれたり>と感謝することが日本人に今こそ必要ではないかと思います。
とうとう何やらカンやら言いましたが、次回は市松人形に入らしていただきます





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2012年6月24日日曜日

日本の伝統芸術芸能・仏像と能面

日本の伝統芸術と芸能 
         能面と能楽佛像と佛像彫刻 
                         <その009



人形特集-004
人形特集もあっという間に4回を迎えました。先回で能面の方に方向転換したかったんですが、だんだん深みに嵌って参りました。若い年代の閲覧者も居られるようですので、人形の方が興味深いかも知れませんね。もう少し続けさせて貰いましょう。
先回は<生き(活き)人形>の製作者の第一人者、松本 喜八郎について、ご紹介しました。本日は松本 喜八郎の対抗馬でもあり、且つ、市松人形などの抱き人形の世界に大きな影響を及ぼした「安本 亀八」について、そして、松本 喜八郎の弟子・江島 栄次郎について書いてみたいと思います。




安本 亀八
鹿児島県熊本の生んだ活き人形師 安本 亀八 は先にご紹介した松本 喜三郎とともに<つくりもん>で双方腕を競い合った好敵手でした。亀八は別名「光正」、「素川」ともいい、晩年は「亀翁」と号しました。 彼も松本と同じく大阪、東京で成功し一旗上げ、「東海道五十三次道中生人形」・「一世一代鹿児島戦争実説」が彼の傑作となりました。 
彼の父は仏師で彼もまた仏師修行の傍ら、<つくりもん>の製作に腕を競い合ったそうです。先回ご紹介した菊人形もてがけ、<人形は安本 亀八>と謳われていたそうです。 
彼は万延元年以降は三重県の名張市に滞在し、主に肖像彫刻を残しております。素封家「角田半兵衛・みか夫妻像」や医師「横山 文圭像」で、神社・仏閣で彫刻を手がけたようです。


角田半兵衛・みか夫妻像(伊賀まちかど博物館蔵

横山 文圭 像 (個人蔵)        細川 宏子像(永青文庫蔵
  

 先にもご紹介したように仏師の家に生を受けた者であるが、彼が熊本に居た頃能楽金春流の白井家と懇意であったり、藩主細川家が能楽を愛好したことから、かって能面を製作していた者とされている。名張の神社所有の45面の能面中、「橋姫」一点が亀八の作品だそうです。
「亀八」は代々亀八を襲名するが、三代亀八は各国の万国博覧会に等身大の風俗人形やデパートのマネキン人形を製作し、上流階級の贈答品となった市松人形を手がけ、一世を風靡し彼の後継者が現在に至っている。


           亀八三代衣装人形頭部(足利時代大将)1909年
                (東京国立博物館蔵
                

 
  少年像 1901年(個人蔵)     三才女児利子像 1930代(個人蔵
            


初代・平田 郷陽は初代・亀八に師事したようで、その後生人形師として活躍し、その技術が二代目・平田郷陽に受け継がれました。1927年・昭和2年答礼人形のコンクールで第1位を獲得したことは余りにも有名です。


       平田郷陽答礼人形・第1位獲得の市松人形
              

              


江島 栄次郎
肥後熊本の活き人形師・松本 喜三郎の弟子にして亀八と同じく仏師の家に生まれた江島栄次郎は1898年に師匠の製作した「谷汲観音像」を全面修理した。そして、加藤清正325回忌を記念して、「清正公一代記」を製作、引退後は華道(粘華流)の世界でも名声を上げました。


1935年作品(熊本博物館蔵
賊僧                    「長浜巡検」井上大九郎
       

             女性
             


その後の「活き人形」の展開
熊本が生んだ活き人形の名人の技術はその後、人形芸術(特に市松人形・・・1927年の「答礼人形」に受け継がれる)、マネキン、医学用の解剖模型などに多様な展開をみせました。


                  ・ 平田 郷陽 二代目
活き人形第2期の人形師   ・  山本 福松 二代目
                                   ・ 厚賀貞七
       ・・・・・・・・彫刻家 平櫛 田中  


  相撲像 (個人蔵)
      

20世紀初頭、ドイツの心理学者ユリウス・クルトによって、レンブラント、ルーベンスと並ぶ三大肖像画家の一人として紹介されるなど、海外でも高い評価を得ている浮世絵師東洲斎 写楽は18世紀末に10ヶ月という短期間に世界的な名品を残しましたが、松本 喜三郎が<ツクリモン>を手がけた時期と近接しております。


                 浮世絵東洲斎写楽


幕末期に海外から入ってきたヨーロッパのリアリズムの影響が在ったようですが、逆に日本からも素晴らしい作品が流れ出、浮世絵の芸術がヨーロッパの画壇に(ルノアール、ゴッホなどにも)大きな影響を与えました。活き人形もドイツやアメリカの博物館に所蔵されております。世界中が大きな芸術の流れを造っていたということでしょうか。


         男性頭部 (ドイツ・ブレーメン・ウーバーゼー博物館蔵)
             


今回で活き人形が終わりました。次回はその他の人形を少しご紹介して、市松人形に入って参ります。


           
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2012年6月21日木曜日

日本の伝統芸術と芸能

日本の伝統芸術と芸能 
         能面と能楽佛像と佛像彫刻 
                            <その008

人形特集-003

 大和人形、抱き人形など江戸時代から一般庶民の中で育まれてきた玩具の一種であるこれらの人形が、ある時から美術・芸術の世界に躍り出てきたことは、翻ってみれば、能面も散楽という中国伝来らしい農業の世界の中の娯楽のような、あるいは神への豊穣の祈りの中から育まれ、いずれかの後美術・芸術の世界に昇華されました。そのような観点で考えれば同じコースを辿ったということが出来ます。
能面でも大和人形(市松人形など)でも実作者の技術によって、千数百年の伝統を持つ仏像製作者達の技術力の伝統の上に花咲いた芸術と言えなくもありません。決してある時に忽然と現れたものでないことは確かです。


 



 先般は<活き(生き)人形>について少し触れました。今回は市松人形に深入りする前に少しおさらいをしてみたいと思います。 
活き人形と抱き人形の本質的な差異は・・・・
活き人形は見世物・出し物といわれる一般庶民向けのお祭りなどによくもようされる興行の世界から出て来ました。抱き人形は一般庶民の中で育まれた、子女向けの玩具の世界から出てきました。興行と玩具という異質の世界と言ってもよく、また、同じ庶民の世界にあらわれた芸術と言ってもよいのではないでしょうか。


         松本 喜三郎作・蟹



活き人形が興行・見世物的な世界から出てきましたが、「菊人形」の世界にも一部関係があったことも確かです。もちろん衣装部分は菊の花木ですが、人形部分が活き人形であったと言うことになります。これは明らかに見世物の世界ですね。


菊人形-01

         菊人形-02
         


活き人形の歴史は意外と新しく、幕末から明治時代に掛けてのことになります。活き人形の製作者と言うことになりますと・・
第1期・・<松本 喜八郎>、<安本 亀八>、<江島 栄次郎>と言うことになります。不思議なことにいずれも肥後熊本の出身です。今回はこの3人にスポットライトを当ててみたいと思います。
松本 喜三郎・・・文政8年(1825年)、熊本 井出ノ口町出生。 地元の地蔵盆の「つくりもん」で活躍。 以後大阪、江戸活き人形で大評判を取り成功した。明治以降はその技術力を生かし、現東大医学部から人体模型製造を受けるなどし数々の名作を残した。


 松本 喜三郎


代表作・「西国三十三箇所観世音霊験記」、「本朝孝子伝」
             
              谷汲観音像
            


* 西国三十三箇所三十三番「谷汲寺」の厨子から観音が巡礼姿で出現した様を人形に仕立てたもの。仏像の観音像とはまた趣が違うのがお分かりと思います。
松本 喜三郎は十四、五歳で職人の世界(鞘師)に弟子入りし、さらに御用絵師にも弟子入りして腕を磨いたもよう。下の写真の「蟹」などを見ると、その腕の確かさが分かります。蟹の作品を拝見すると、すぐ高村 光雲の息子、高村光太郎の作品を連想してしまいます。いかがですか?


高村 光太郎作              松本 喜三郎 作
    



家族が仏師ではなかったようですが、まさに非凡な才能を持たれた方と思われます。高村 光雲は名実ともに仏師であり、現在の東京芸大の前身である、東京美術学校の教授でした。
下の作品はイタリア・フィレンツェ(フローレンス)・ステイベルト美術館収蔵の松本 喜三郎であろうとされている武士という題の作品。ちょっと見には本物の人間に見えます。


武士


                             官女
                             


池之坊


少し暗がりで見たら完全に騙されるでしょうね。いかがですか。
最後に活き人形の系譜を引く 二代目 平田 郷陽 作の市松人形の頭を再度掲載します。よく比較してみてください。






なんとも早、もう一言もございません。お後が宜しいようで・・・・・
次回は松本喜三郎の好敵手安本 亀八を書いてみたいと思います。

2012年6月11日月曜日

日本の伝統芸術芸能・仏像と能面

        日本の伝統芸術と芸能 

 能面と能楽佛像と佛像彫刻 
                         <その007

人形特集-002


 
 奄美群島も台風通過したあたりからやっと梅雨空のような陽気になってきました。本州は大部分が入梅したとか。もう北海道を除いて大部分が湿気で不愉快な季節に突入したことになります。
さて、先回は市松人形を中心としてご紹介しました。大都市の人形専門店などに参りますと、夥しい程の人形が店中に所狭しと並べられております。雛人形から始まって子供向けの創作人形まで、どれ位の種類が有るんでしょうか。


そうは言っても、美術品の価値がある人形になりますと、ある程度の分野に限定されてきます。 市松人形でも顔の造作、衣装がある程度のレベルを超えるものはなかなか見つからないでしょう。たまに見つけたとしても、目の玉が飛び出るほどの値段になっております。 小型車の新車が一台買える値段などざらなんですから。
そのような訳で、簡単に人形を説明するのは瘋癲老人には荷が重過ぎる。それで、オーソドックスな形として「古典人形」と呼ばれる人形について書いてみたい。

           A・・ 御所人形 ・ 嵯峨人形 
古典人形・・・ B・・ 衣装人形 ・ 市松人形        
           C・・  加茂人形 ・ 木目込み人形
          D・・  カラクリ人形 ・ 浄瑠璃人形 ・ (嵯峨人形

 上記のようにスパッと分類出来るわけではありませんが・・・・この中で一般的に余り耳にしない人形と言えば「嵯峨人形」が揚げられるでしょう。木彫りの精緻な技巧が施された世界にひとつしか存在しない人形ですね。



 
  江戸時代の初期の頃から仏師によって製作されるようになったとされております。木彫りの上に胡粉彩色された人形ですね。仏師だけでなく能面師でも簡単に技術が転用出来たでしょう。
能面師は江戸期に入ってから、能楽が大名の式楽となったと同時に、お抱えの能面師になっていくのです。出目家を名乗る一派が居りました。鎌倉時代の慶派、円派などと同じように。能面師や仏師の余技から生まれたのでしょうか。
嵯峨人形の面白いところは、カラクリを仕込んだ精巧な人形でもあるので、カラクリ人形や人形浄瑠璃(文楽)の頭(木偶)に類似したところもありますようで、なかなか難しい。


             阿波系 頭(木偶)
             


 浄瑠璃人形(文楽人形)は皆さんもご存知のように、頭に衣装を纏わせて数人の人の手でカラクリのごとく人形を動かす芝居に用いられる。 木彫りもあれば、桐塑によって製作される人形でしょうか。彩色はともかくなかなかの名品も見られます。
眉、眼、口、手、首などを人の替え添えで動かすという動的な人形でしょうか。瘋癲老人としてはこの人形の頭の製作には随分興味を覚えましたが、終ぞ観覧したことはございませんでした。演目の内容が恨み辛みの連続のようなので、興味をそそられませんでした様で・・・


          
 
Tea Time ・ お茶の時間


    平田 郷陽の芸術

初代・平田 郷陽作・・・三つ折れ人形
 全身木彫りの人形で、膝関節が曲がるように造られており、衣装を着せてお座りが出来るようになっている。生人形(活人形)造りの名人。初代平田 郷陽は幕末から明治にかけて活躍して、名人と謳われた熊本の生人形師・安本亀八に師事して、写実の技法を会得し、二代目・郷陽に伝授。


                三つ折れ人形初代平田郷陽     
     
 
 

 三つ折れ人形は江戸時代に出現した人形のようで、上の写真のように腰、膝、腕が曲げることが可能な人形の製作形式です。通常市松人形は直立したままの状態で製作され、身体を折ることが出来ません。人形店で市販されている市松人形は大体この形式です。ですから、三つ折れ人形=市松人形 ではありません。

   
三つ折れ人形永徳斎作・江戸時代

 * <弘法さんと私>よりお借りしました


 抱き人形、大和人形などと言われていた人形は、当時の幼女、娘が人形を裸のままで親に買ってもらい、着物の衣装などは自分で裁縫をして造り上げ、人形を座らせて着せ代えるなどという、情操教育の一環として庶民の間に根付いていた習慣でした。その人形が好事家の手に渡り、蒐集されるようになり、美術品として発展したものなのでしょう。特に市松人形は現在までも関西あたりでは<いちま><いちまんさん>と呼ばれて愛唱されております。


                  答礼人形長崎タマ子

 
 生人形(活人形)については、それなりの芸術的伝統がございまして、調べてみますと思いのほか複雑です。これについては次回に書かせてもらいます。
瘋癲老人のちょっとした気まぐれで、市松人形の世界に入ってしまいましたが、調べれば調べるほど奥が深く、今少し後悔しております。でも、人形の顔を見るとさらに深く引き込まれてしまいます。


徳川正子(尾張家20代義知夫人)所用・滝沢光龍斎
市松人形 滝沢光龍斎作
* 徳川美術館よりお借りしました。

 幼児の頃、母方の親御に市松人形を買ってもらった記憶が今でも残っております。自分より背が大きかったとの記憶がありますから、昭和20年代の初めの頃かと思います。3歳くらいでしょうか。物の無い時代でしたから眼玉が飛び出るほどの値段だったでしょう。赤い着物地だったというはっきりとした記憶があります。
次回はいよいよ大御所「二代目・平田 郷陽」に入ります。